江ノ電の歴史
2019.06.26
今年、鎌倉のあじさいは例年より早めに見頃を迎えました!
鎌倉市民の脚として親しまれる江ノ電では、毎年「アジサイ入場券」なるものが販売され、6月1日から発売されている今年も、観光客の方に大好評なんだそうです。
江ノ電とあじさいの写真があしらわれた専用の台紙に、色とりどりのあじさいのイラストが描かれた昔ながらの硬券入場券。
そのほか、公式ブログでは、江ノ電沿線のあじさいスポットをまとめていたり、駅係員が手作りで作成した「江ノ電あじさい情報」が公開されていたりと、鉄道開業117年、地域密着型な江ノ電だからこその“鎌倉愛”が伝わってきます。
江ノ電の“鎌倉愛”あふれる姿に、鎌倉市民はさらなる“江ノ電愛”を深めていくのですが、そんな江ノ電が、かつて廃線危機にあったのをみなさんご存知ですか?
時は昭和30年代中期から40年代初頭ごろ。
このころの日本経済は、世界に例を見ない高度成長が進んでいました。この経済成長にともなった所得の上昇が、個人消費の急速な拡大をもたらしていたのです。そこで普及したのが新三種の神器、または3Cと呼ばれたカラーテレビ、クーラー、自動車(カー)でした。
とりわけ自動車は、日産のダットサン210、トヨタのカローラなど、1,000ccクラス大衆乗用車が続々と発売され、「マイカーブーム」「モータリゼーション」という言葉が広く使用されるようになります。
このモータリゼーションが鉄道離れを加速させ、利用者低迷の脅威となったのが、江ノ電でした。
加えて、昭和39年に開かれた東京オリンピック。江ノ島がセーリングの競技会場となったことで周辺道路が整備され、いち早くモータリゼーションの波が押し寄せたのだそうです。
この昭和39年を境に江ノ電の利用者が次第に減っていたそうですから、「江ノ電廃線」が検討の俎上に乗るのは、ある意味自然なことだったのかもしれません。
江ノ電廃線の危機を救ったのは、皮肉にも江ノ電を廃線の危機に追いやった“自動車”でした。
急激に増えた交通量により、鎌倉・湘南エリアで慢性的な渋滞が起こったのです。渋滞の影響を受けない鉄道での移動が見直された結果、江ノ電は見事復活を果たしました。
今では鎌倉・湘南エリアの風景を彩るひとつとして年間1,900万人の利用者を集めるまでになった江ノ電。
何気なく乗っている毎日でも、波乱万丈なその人生を思い起こさずにはいらなくなってしまいました。